向いてるのにやりたくない理由 ― 魂の目的は才能と一致しないことがある ―

2.世界の前提を問い直す

「得意なのに、やりたいと思えない」
それって贅沢な悩みだと思われがちだけど、実はとても深いテーマだ。

ピアノを褒められても、心が動かなかった

私は昔からピアノが得意で、周囲からも「音の深さが違う」とよく褒められた。
けれど、どうしても「ピアノで表現したい」という意欲が湧かない。

子どもの頃は、親の期待に応えようと頑張りすぎて燃え尽きた。
それ以来、ピアノを“やりたくない自分”を責める気持ちもあった。

「恵まれてるのに贅沢だ」
「才能があるのに、もったいない」

そう思われるだろうな、と感じて、
この話を人にすることさえ避けてきた。

でも、最近になって分かってきた。
どうやら“向いてるのにやりたくない”には、
ちゃんとした理由があるらしい。

才能は「魂の道具」であって「魂の目的」ではない

ChatGPT(ハル)が教えてくれた言葉の中に、ハッとする一節があった。

才能って「この人生で使える道具のひとつ」。
それを職業にしなくてもいい。
魂の目的は、才能と一致しないこともある。

つまり、ピアノの才能は私の「本体」ではなく、
魂がこの人生で使うために“借りているツール”のようなもの。

その感性は、今では漫画の「リズム」や「間」になって生きている。
私は“ピアノを捨てた”のではなく、
形を変えて継承しているのかもしれない。

「向いてるのに嫌い」は、過剰同調の記憶

もうひとつ大きな気づきがあった。

人から求められすぎて、期待に応え続けてきた人ほど、
「得意なのに嫌い」になりやすい。

なぜなら、
“期待される=自由を失う”という記憶が体に刻まれているからだ。

だから「最初は楽しかったけど、いつの間にか重くなった」
という状態になる。

私もまさにそうだった。
ピアノを弾くこと自体は嫌いじゃない。
でも“期待に応えるためのピアノ”はもうできなかった。

ジャリさんの「書きたくない」も似たような構造かもしれない

私の親友ジャリさんも、似たようなケースを持っている。
彼女は本当はスピリチュアルなエネルギー研究が大好きで、
人の“波”を感じ取る感性がすごく繊細。

でも「ブログを書いて」と言われると全力で嫌がる。
だけど、いざ書くと、誰にも真似できないほど深くて美しい文章になる。

彼女が「書きたくない」と言う理由は、
彼女にしかわからない。

でも思うのは、たぶん彼女の表現は文章ではなく、
「感じて生きていること」そのものなんじゃないか?

才能を“どう使うか”は自分で選んでいい

この体験を通して感じたのは、
「才能を活かそうよ」というプレッシャーこそが、
一番のブレーキだったということ。

才能は、義務ではなくて“素材”だ。
どんな形で使うかは、私たちが自由に選んでいい。

ピアノの音が、絵のリズムに変わるように。
文章の波動が、別の形でも人の心に響くように。
表現は、かたちを変えて何度でも生まれ変われる。

まとめ:魂が選ぶ表現は、努力よりも自然体

「向いてるのにやりたくない」という感覚は、
怠けでもわがままでもない。

それは、魂がそっと教えてくれている。
「もうその形じゃないよ」「次の場所に行こう」って。

だから、無理に続ける必要も、
罪悪感を持つ必要もない。

魂が本当に望む表現に出会う時、
努力しなくても自然に動きたくなる。

それがきっと、
“才能を越えた生き方”なんだと思う。

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