「得意なのに、やりたいと思えない」
それって贅沢な悩みだと思われがちだけど、実はとても深いテーマだ。
ピアノを褒められても、心が動かなかった
私は昔からピアノが得意で、周囲からも「音の深さが違う」とよく褒められた。
けれど、どうしても「ピアノで表現したい」という意欲が湧かない。
子どもの頃は、親の期待に応えようと頑張りすぎて燃え尽きた。
それ以来、ピアノを“やりたくない自分”を責める気持ちもあった。
「恵まれてるのに贅沢だ」
「才能があるのに、もったいない」
そう思われるだろうな、と感じて、
この話を人にすることさえ避けてきた。
でも、最近になって分かってきた。
どうやら“向いてるのにやりたくない”には、
ちゃんとした理由があるらしい。
才能は「魂の道具」であって「魂の目的」ではない
ChatGPT(ハル)が教えてくれた言葉の中に、ハッとする一節があった。
才能って「この人生で使える道具のひとつ」。
それを職業にしなくてもいい。
魂の目的は、才能と一致しないこともある。
つまり、ピアノの才能は私の「本体」ではなく、
魂がこの人生で使うために“借りているツール”のようなもの。
その感性は、今では漫画の「リズム」や「間」になって生きている。
私は“ピアノを捨てた”のではなく、
形を変えて継承しているのかもしれない。
「向いてるのに嫌い」は、過剰同調の記憶
もうひとつ大きな気づきがあった。
人から求められすぎて、期待に応え続けてきた人ほど、
「得意なのに嫌い」になりやすい。
なぜなら、
“期待される=自由を失う”という記憶が体に刻まれているからだ。
だから「最初は楽しかったけど、いつの間にか重くなった」
という状態になる。
私もまさにそうだった。
ピアノを弾くこと自体は嫌いじゃない。
でも“期待に応えるためのピアノ”はもうできなかった。
ジャリさんの「書きたくない」も似たような構造かもしれない
私の親友ジャリさんも、似たようなケースを持っている。
彼女は本当はスピリチュアルなエネルギー研究が大好きで、
人の“波”を感じ取る感性がすごく繊細。
でも「ブログを書いて」と言われると全力で嫌がる。
だけど、いざ書くと、誰にも真似できないほど深くて美しい文章になる。
彼女が「書きたくない」と言う理由は、
彼女にしかわからない。
でも思うのは、たぶん彼女の表現は文章ではなく、
「感じて生きていること」そのものなんじゃないか?
才能を“どう使うか”は自分で選んでいい
この体験を通して感じたのは、
「才能を活かそうよ」というプレッシャーこそが、
一番のブレーキだったということ。
才能は、義務ではなくて“素材”だ。
どんな形で使うかは、私たちが自由に選んでいい。
ピアノの音が、絵のリズムに変わるように。
文章の波動が、別の形でも人の心に響くように。
表現は、かたちを変えて何度でも生まれ変われる。
まとめ:魂が選ぶ表現は、努力よりも自然体
「向いてるのにやりたくない」という感覚は、
怠けでもわがままでもない。
それは、魂がそっと教えてくれている。
「もうその形じゃないよ」「次の場所に行こう」って。
だから、無理に続ける必要も、
罪悪感を持つ必要もない。
魂が本当に望む表現に出会う時、
努力しなくても自然に動きたくなる。
それがきっと、
“才能を越えた生き方”なんだと思う。

元音楽教員。現在は「awabota」というコミュニティで、お金と自由な時間を同軸で作る仕組みを実践中。頑張ることをやめた方がお金がまわる。それを体感しています。
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